翻訳語で思考する人々

インターネットを読みかじっていたらこんなものを見つけた。


山岡洋一氏の「いま翻訳に求められていること」
http://www.honyaku-tsushin.net/ron/bn/shugi.html
この論考はおもしろい!

当時の後進国の多くが英語などの外国語を学び、外国語で西洋文明を学ぶ方法をとったのに対して、日本は徹底した翻訳主義をとった、つまり欧米の優れた書物を徹底して翻訳し、母語で学ぶ方針をとったというのだ。その結果、「上流階級と下層階級ではまったく言葉がちがってしまう」事態を日本が避けられたのであり、この点と、欧米以外の国ではじめて近代化を達成できたこととの間に関係がなかったとは思えない。翻訳主義をとったからこそ、いまの日本があるとすらいえるかもしれない。
〔…〕だが注意しておくべき点がある。日本でも翻訳主義の結果、上流階級と下層階級では言葉が微妙に違う状況が生まれているのである。
〔…〕翻訳主義の結果、「文化の二重構造が造られ」たことになる。「現代口語文」という名の翻訳調文章体を使う「知識人」と、正真正銘の口語を使う庶民という二重構造である。
 最近の若者は本を読まない、以前の大学生なら難解な本を喜んで読んだのに、いまでは少しむずかしい本はまったく読んでくれないと出版界は嘆いている。二重構造という観点からこの現状をみると、何かがみえてくるはずだ。

これを読んで身近に思い起こすエピソードがあって、それは私の母は埼玉の某市で昭和20年代に小学校に行くのですが、その小学校では市中心部の旧士族で当時「シルク」と呼ばれた製糸?絹織物?工場の勤労者の子どもがいっぱいいて、彼らは明治政府が「mother」に対する訳語として発明した「お母さん」をごく普通に使っていた。しかし市周縁部に住むマイノリティ農家であった私の母の家で「mother」に相当する語は「かあ」だったそうで、その意味では学校に行くことがもうカルチャーショックだったようです。
それに比べれば私はそれほど言語に困ることはないですが、今やっている仕事といえば明治以来、東京(帝国)大学法学部の卒業生諸氏が作り上げた、日本列島の住民同士の関係を安定させて余計な混乱を防ぎ、また政府に従わせるために累々積み重ねられてきた壮大な翻訳調プログラミング言語の体系を参照しながらも、自らの利益になるよう当事者としてさらに自ら翻訳調の言葉を紡ぎだすことであります。
注・酔っています。