賽は投げられた

僕の意思とか行動とか、例えば、僕は終戦記念日にこんなことを思ったとか、僕がこれからこんな人生を歩みたいとかいう夢を抱くとか、僕が友だちを誘って飲みに行くとか、そういうことはどうやら全部、僕の中の(遺伝子とか)、あるいは僕のまわりの所与の条件から起こった反応でしかない、らしいんだけど、じゃあ何も考えなくていいのか?考えてるフリだけしてればいいのか?
て、そんなことを僕が考えるのも、僕が、僕にそんなことを考えさせる情報・知識に触れる条件が偶然にも作り出されたからにほかならない。こうやって還元論を進めていくとタイヘンタイヘン。
ああ、あれだね、賽は投げられたってやつだ。もう生まれる前から賽は投げられている。僕は賽の転がりようによってこの世とやらに生を享け、僕と僕のまわりの賽の転がりようの観察をしている、それだけなんだ。