テスト期間

この時期はやたら学問的な日常語をしゃべりたくなる。覚え書きみたいなものだから気にしないでね。


以前から僕は、漫才で笑えるのといわゆるサベツとは構造が一緒だと言ってるんだけど、これはマジで言ってるんで。
漫才を見てケラケラ笑ってる自分が、何で笑ってるのかをよーくよくよく考えると、結局はボケ役を劣等的存在とみなし、自分が優越しているというその愉快な気分によって、笑っている。だから何というか、信じたくないけどホームレスを指差して笑ってるのと根は一緒だと思う。
よく小中学校で書かされるでしょう、人権の授業とかで、作文を書いて「誰かに優越したいという気持ちが差別を生むのだと思います!」だとかね?でも優越したいという気持ちをなくしたらお笑いなんて成り立たないんですよ。逆に言えばお笑いを存置してもよいという社会は必ず差別を内包するはず。
でまあもっと言いたいのは、男女ならオトコ、オンナ、と名づける時点で差別が始まるんですね。人間の、ただそこらへんの木と木製の机とを区別して考える、メガネは健常者で車椅子は障害者、日本人と韓国人、みたいな、「認識」に必ず伴う「差異化」というのは不安定で、実は根拠がない。こんな根拠のない差異化がまかり通って、同じものを別のものにするせいで、差別がはじまる。別にすべてあらゆるものをひっくるめて「世界」でもいいんだよね。まこれだって認識なわけなんだけど。
だから差別をやめたいなら、認識やめちまえと。人は認識するところから差別をはじめる。
そんなこんなで、「差別をやめよう」の理論的困難というのは大変なものだね。その困難を自覚した上でどうやって「みんなの嫌な気分」をつぶすための原則をつくるかってのは大変だと思う。